昭和51年07月17日 朝の御理解
御神訓
「一、忌み汚れはわが心で犯すこともあり払うこともあり。」
「一、祈りてみかげのあるもなきもわが心なり。」
この二つの御神訓にわが心というのが、両方出てりますね、忌み汚れは我が心というのは、我という字じゃから、和らぎ喜ぶ心あれとは違うね我が心です。祈りてみかげのあるもなきもわが心と。自分の心一つで忌み汚れを払う事もある、又それを犯す事もある。自分の心がいうなら汚れたり汚れたり、同んなし事柄でも払う事も出来れば犯す事にもなるというのです。この辺のところが信心の一つの不思議なところですね、理屈じゃないですね。忌み汚れ不浄という。
女の方が昨日まぁ黒不浄とか赤不浄とかいう、例えば月のものがあっておる時なんかは体が汚れておる汚れておる。そして昔の人達はあのう特に高神様にお参りも出来ません、それでも参りよったら怪我する様な事があると言う風に、自分で自分の心を汚し汚しおった訳ですね、今でもやっぱりそうでしょう。例えばそういう生理的な事がどうして不浄かと、おかげを頂いておるからこそ、順調におかげを頂いておるんだと、お礼を申し上げる心になったら、もうお礼の対象でしかない。
本当にお礼をいう心におかげがあるのです。そうでしょうが皆さん。この自分の心でね、それこそ鳥居もくぐられんということになったり、わが心一つで鳥居どころか神様のお傍近くにお礼を申し上げる心と、はぁ自分なこんな汚れた事しとる、こんな汚れた事しとるから、もう自分なおかげ頂ききらんと思う心が、おかげを頂ききらんのです。けれどもそれをおかげとしてお礼を、なら一切の事に御の字を付けてと言う様な頂き方をすると、その事がおかげを頂くおかげの受けどころになるんです。
確かに忌み汚れは和賀心で犯す事もある、払う事もあるんです。祈りてみかげのあるもなきもわが心。ほんに自分のごたるもんないつまっでんおかげ頂ききらん、おかげ頂ききらんと言いながら、いくら毎日参ってきたっちゃ、いつまっでんたったっちゃおかげは頂ききらんでしょうね、神様がお嫌いだからですよそういう心を。けれども考えてみるとほんにあれもおかげこれもおかげ、信心するようになってこういうおかげも頂いたというて、おかげおかげで頂く心、祈りてみかげのあるもなきもわが心。
教祖様は素晴らしい事を教えておられますよね。もう自分のごたる不幸せの者はおらん、自分のごたる難儀な者はおらんというから、いつまぁでも不幸せであり難儀である。私のような幸せ者はおらん、本当に私そうもう日本一の幸福者だと言う様な頂き方、そういう心で祈るのです願うのです。祈りてみかげのあるもなきもわが心。だからいかにその有り難い有り難いという心、その為にはいかに有り難い有り難いと思える心が、必要かということになります。
私は今日信心をして何が一番おかげだろうかと思わせて頂いたら、確かに映画俳優におりました、「原健策」ということ字で頂いたんです。おりゃしませんか、原健策ちゃ、映画俳優におらんですか、なんか時代劇かなんかに出よる。とにかく字で原健策、原ということはお腹ちいうことでしょうね、心ということでしょう。健策ということは健康の健ですから、心の健全な人ということでしょう。信心によって心がいよいよ健全になる。今月の焦点である心が太くなる。
どういうものを例えば胃腸が強ければどんな物を食べても当たる事も触る事もない、心の胃腸が、いや肉体のその胃腸が、だから心の胃腸もやはり健全であるということ、これが一番信心させて頂く者のおかげです。心の健全な人。そういう例えばあのうおかげを頂かせて頂くためには、どういう姿勢を持っておらなければならないかと。今日頂いたのが、ひまわりを頂いたです、ひまわりの花を。
もうそれこそ大きな葉がもうあんな生き生きとした、黒々としたまでの青い大きな葉に、もう黄なもあんな素晴らしい、濃い黄なは見た事ないち言う様な、黄なの大きな花びら、中の芯があれは大体小豆色でしょうか、黒がかったような大きな芯に、もう見事な黄なの色の、しかも見事な生き生きとした色の青々とした、もう幹なんかじゅうじゅうとしたそのう、いわば十分肥やしの効いたひまわりだなと、思われるようなひまわりの花を、一輪頂きました。
だから信心をさせて頂いて、信心の修行というのはどういうことかというと、難儀に背を向けないということです。難儀から逃れようとしないということです。難儀にはもう取り組んで行く事だ、向かって行く事だということです。はぁほんにこの難儀から早く抜き出たい、抜き出たいと言う様な事は、もう難儀に背を向けとるんです。この難儀で力を受けようと、例えばひまわりが、太陽の光暑い方へ暑い方へとこうやって、そのう向を変えて行く様なものじゃないでしょうか。
だからこういう姿勢を先ず作る事です。難儀に背を向けない、ひまわりのように暑い方へ暑い方へとまぁ日陰ばっかり歩こうと言った様なものでは、ヒョロヒョロした様なものしか生まれやしません。太陽の日に向かって行くような心の姿勢ひまわり。だからとてもひまわりの花のような、信心をさせてもらわにゃならんということになります。そしていよいよ心の健全を、願わなければならんということになります。
これが一番最高のおかげであります。その最高のおかげに必ず徳がつくのです。お金が儲かるということでも、健康になるというこでもない、心の健全を願うこと、それが難儀に背を向けないということ。心が健全になり、いわゆる難儀に背を向けないという、そういう信心姿勢にいよいよいやが上にも、心の健全に何を頂いても触らない、そういう信心に私は徳が頂けると思います。
昨日ある方がお参りして来てから、今朝からお夢を頂いたという。私のその方の洋服ダンスの上に、親子の猫が死んどる。猫というだけでも不浄というのに、死んどる親子の猫というのじゃからもっと不浄ですよね。お道の信心では忌み汚れという意味ではなくて、不浄とは成就しない事だとあるんです。今その方は大きな願いを立てておるんです。ところがその人はもう非常になんというでしょうかね、買い物好きです。して良かもん好きです。もうそれこそもうとにかく作らにゃでけん、買わにゃでけん。
だから私昨日その方に申しました。あんたはそれを改まれとは私は言わんて、あんたが本当にもうそれこそあの人の着物は、ほんなこて何百万するじゃろかというごたる着物もあんたは着らせて頂いて、それこそ何百万するじゃろうかというごたるなら、ダイヤの指輪も世の中にはありとあらゆるいうならば、素晴らしい物を身に付けられるような、素晴らしい物を食べられるような、素晴らしい家に住まわれるような、私はおかげを頂いてもらいたいと思うです。そういうことをやめろとは決して言わんと。
けれども問題はです人に迷惑をかけるとか、借金に頭を悩ましとるような時に買うたりしたりするからいけないのだと私は。洋服ダンスの上ということはやっぱりそういうことじゃろうと思うです。もう洋服ダンスを開けたら、もうそれこそ大変な立派なもんばかり沢山持っておるという訳です。だからそれがね楽ぅに身につけられ、楽ぅに買われるような私はおかげをこそ願うであって、私は決してケチな事は言いやせんて、そげなことはしちゃいかん。
そげな贅沢な、そげなん着物な勿体なかてなんてん言いやせんて私は。けれどもならそれこそ「欲しがりません勝つまでは」と昔戦時中に言葉があったがあんた達が今、そういう大きな願いを立てておるのであるから、その願いが成就するまではきれ一寸買いませんちいう位な修行をしなければいけないよと言うておられますね、そういう私は信心がです今日のこの不浄、二つの御理解にピッタリするような感じがするです。
「欲しがりません勝つまでは」と言う様な生き方、そういう姿勢を先ず造る事なんだと。私の最近の考え方は、もう本当に色々な人がありますよ。あんた達はそれを改まらなきゃおかげ頂かれんと、言いよったらその人は一生おかげ頂かれんだろうと気が付かせて頂いた。あれは確かあのう私が泥棒の自覚かなんかと、言った様な御理解の時だったと思います。それだったかなぁそれじゃなかったそれ前だったでしょうかね、もうだからその身そのまま、最近頂く事は即身成仏という事を次々と頂くです。
それこそもうその人がならどういうなら普通でいうなら、贅沢な心を持っておっても、その贅沢な心を取らなければおかげにならんということではなくて。その贅沢な事が有り難く出来れるおかげを頂けというのです。だからそう言う金が頂けるまでは、私は辛抱せねばいかんです。もうだからそういう人達には私は改まれとは言わん。もうその身そのまま助かられる生き方を身に付けよとこういうのです。
昨日私神様に気兼ねしてお金は使うと言った様な事を申しましたね、神様の御物と思うからそれと、甘木の親先生あたりが、自分の物を買う時には一円の物を買うでも、百円も使うごたる気持ちで、いうならば神様にそれこそ御物を使うということに。神様に気兼ねしもって使いござるという感じです。だから合楽の方達は本当にです、自由自在のおかげとでも申しましょうか、富貴自在のおかげを頂きたいと思うならです、そこの辛抱しなければいかん。
そこの修行をしなければいけん。そして自由自在なものが、頂けれるおかげを受けなければいけない。その為には我心でです、おかげを受けて行くという、そのなら我心というのは生き生きとした、難儀に背を向けると言った様なのではなくて、ものではなくて、ひまわりの花のような信心をさせてもらう。そういう生き生きとした心で、神様へ向かうというのです。
昨日研修の時です、公子先生が今朝からお夢を頂いた。末永先生がちょうど壱岐にちょうど前の日から、郷ノ浦の夏の御大祭に帰っとりました。やっぱ夢の中にもそういうお夢で、そのう末永先生が壱岐から帰ってきよんなさる、それから福岡に着かれてから、今から私は有田に親先生のおみやげに、有田焼ば買いに行くちいうて言いよんなさるところのお夢であった。
したら次のお夢かた次にゃ私のこの控えの横に修行生が皆んな集まって、その壱岐に行ってからのおみやげち言うてから、修行生全部にステテコば一枚ずつ配りよんなさるところば頂いたち言うんです。本当にこれは判事もんちいうたっちゃ、判じが出来んごたる、それは何ちいう意味じゃろうかのち言うちから言よりました。けれどもそのう末永先生が、あのう船から降りてこっちさん直接帰ってこんな、有田の方へ焼き物を買いに行ったということは、私はすぐピンときたんです。
これは私の好きな物をおみやげに買って帰ろうということだろうとこう思いました。そして神様にお願いさせてもらいよったらね、信心はね、あのう信心は要領ではいかんちゅこと。人を胡麻化す事ならばね要領でんよか。例えばはぁ親先生が今日ちいと腹かいてござるばいち例えば言う時です、親先生の好きな物んのいっちょもって行くと、親先生がニコッと笑わっしゃる。と言う様にですよ、これは要領ですよいうならば。だから神様はそういう訳にはいかん。信心は要領じゃ出来んね。
ただそれが本当に親先生が喜びなさるという、只々その事だけならばそれは有り難いです。けれども機嫌取りのための、例えばそれであったらその人は要領ようしておるということに、信心は要領じゃいかん。ステテコというとはどういうことかというとね、だらしのない信心ということ。例えばステテコ一枚になっとる姿はだらしのない事です。それこそそれにもう一つ足らんものがある。『ステテコにそが一つかけておる』ということを頂いた。どげんなるですかすててこにそばつけて御覧なさいどげんなる。
「ステテコこそ」ということになろうが。ステテコこそとそれこそね、我情我欲を捨ててこそ本当なお徳が頂けるとですよ。死んだ気でそれこそ命をステテこそ浮かぶ瀬もあるということになるのです。例えばここでも修行どもさせて頂きよる人達は、もうその事だけに専念しておるんだけれども、ステテコこそと言うとに「そ」がいっちょ足らんち、だからステテコになっとる訳です。だからステテコちゃあんた達の修行がだらしがないぞという訳です。そして要領ばっかりようなってからということになる訳です。
私はもう本当にあのう毎日思う事ですけれども、神様の御理解をこの様に下さるということは、もう寝とっても覚めとっても、いかに合楽の神様がついてござるかちいうことが分かるでしょうが、その前の日の上野先生が御理解なんかでもそうですよね、曲がった腕でピンポンをしござるという、もうとてもとてもこりゃ上野先生だけじゃなくて、合楽で私の話を聞いて下さる程しの皆んなの人にですね。神様が噛んで含めるように教えて下さってあるということ。
だから寝とっても覚めとっても、神様の合楽に起こっておる神様の働きというものが、皆んなの一人一人の上に、そういう切実な働きをもってです、神様がおかげ下さっておる。昨日私がお取り次ぎさせて頂いた、その方が大きなおかげを受けなければならないその前に、その前提にです、いうならその人の使っておる、洋服ダンスの上に親子の猫が死んでおったと。これではあんたが今どんなに素晴らしい願いをたてとっても不浄に終わってしまうぞじゃん。
不浄に終わってしまうということは成就しないぞということ。これには一つ本気でひまわりのような心でです、それこそ欲しがりません勝つまではであって、そして決してんならあんたの好きな物を取り上げてしまうということは絶対せん、それこそ人の使い切らんごたる道具でも使わせて頂けれる、おかげを頂けれる時期までおかげを頂け。それにはいうならば、先ず自分の心のいわゆる原健策である。自分の心をです先ず心の健全を願わなけりゃいけん。
それにはねその元になる所の信心には家庭に不和のなきが元と仰るから、家庭の不和どんががあるごたる事で、ほんなおかげは絶対受けられんです。本当なおかげですよ、だから人を責めるとかね、皆さんは最近五つの願いということは、これはもう日にもう何回でん、御神前に向かうたんびに祈り願わせて頂かなん事です。その第一が家庭に不和のなきがもとであり。
体の丈夫を願え体が元なりである、物事も何をするにも体が元なりという。例えばこの五つの願いの中のこの二つだけでもです、もう本気で願わなきゃいかん、家庭に不和のなきがもと、そのためには決して人どん責めよるごたる心があっては、家庭円満は生まれません。自分で我力で押さえていこうてんなんてん頂くは絶対駄目。私はこの五つの願いがでももう何年になりますでしょうか、以来私は絶対こりゃ家内でも子供でも責めるということを言いません。
どうしてそげな事をするかち、どうしてちいうことを言わんです。人どん責めよってから、家庭の円満のどうぞ家庭円満の家庭を願うたっちゃ、おかげになる筈は絶対ないですよ皆さん。責める心が出た時には自分の心の事を責めなん。だからなら自分の心を責めるというても何だからです、いうなら今日の御理解じゃないけれども、我心で払う事もありゃ犯す事もあると言った様な信心を身に付けていかなければいかん。むしろその事が有り難いとお礼の言えれるところまで、信心を極めていかにゃいかん。
そういう心で祈りてみかげのあるもなきも我心、おかげを頂かん時は我心を、いうならばこげなんイライラする心、こげん人を疑う心こげん腹の立つ心、これでおかげお願いしたっちゃおかげ頂かんはずだと思わなきゃいかんです。そしてそういうなら心の中に不浄が起こったり、不浄とは成就しない元であるそういう心があるならばです、そういう心をを払う事に、いよいよ心を健全なおかげを頂かせて、どういう物を見ても聞いても、びくとんせんだけの心を頂かせてもらわないか、原健策である。
その原健策のおかげを頂くためには、まず一つひまわりのような信心をしなければいけない。信心は要領ではいかん、いかにも神様をだまくらけぇたごたるけれども、親先生ならだまくらかせようけれども、神様はそういう訳にはいかん、もう信心ばかりはズ-から行かにゃ駄目、しかもそのズ-からちいうのが、ステテコではそれでは神様の目からご覧になったら、だらしがない信心としか見なさらんだろう。
それにもう一つ「そ」の字を入れて、捨ててこそという、いうなら死んだ気でという、いうなら一生懸命でという、自分の心に取り組ませて頂く信心こそです、捨ててこそそこにお徳が受けられる。信心は要領ではいけん、信心はどこまでもそれこそ実意丁寧神信心でなからなければならない。神様がこう言う風にしてです、それぞれの言うなら御信者さんの上に、夢の中にまで現れてお知らせを下さってある。そしてこういう信心をすればこういうおかげが受けられる、ということを教えて下さってある。
その事を難しいと思わずにです、その事を行じさせて頂く事を楽しみになる、喜びになるような修行を本気でさせて頂いて、いよいよいうならば合楽大学を卒業させてもらうまではと言う様な信心をです、本気でさせてもろうて、卒業の暁には富貴自在のおかげの頂けれる信心をして頂きたいと思います。忌み汚れは我心で犯す事もあり、払う事もある。祈りてみかげのあるもなきも我心。今日はこの我心、我の心と書いて我心について、聞いて頂きましたですね。
どうぞ。